場所
大野城市乙金
分類No.
歴-0033き

供養の塔

大野城市乙金の髙原家の墓地にある享保子丑餓死枯骨塔は、
享保17・18(1732・33)年に起こった大飢饉(だいききん)と疫病(えきびょう)の際に当時里正(りせい)であった髙原善一郎美徳が、餓死して無縁仏(むえんぼとけ)となった人々の骨を拾い集めて埋葬した100年後にあたる天保2(1831)年に、曾孫で(ひまご)ある善蔵が建てた供養塔です。

石塔には「享保十七年九州大いに饑え、本州最も甚し、田卒汗菜(稲も実らず野菜も枯れてしまう)となり
餓孚(がひょう)(飢え死にした人)道に相望む者数万人、翌年疫(伝染病)に罹(かか)りて死する者亦数万人、闔国(こうこく)(国中の死者十万人に至るという・・・」と刻まれており、いかに大災害であったかを伺うことができます。
太田南畝(おおたなんぼ)の『一語一言』には、その死者は筑前国の総人口367,800余人のうち、96,020人であったと記録されています。
『日本災異紀』には「この年の秋の収穫は、前五ヵ年間の全国平均収穫高の一割五分しかなかったため、
全国で二百六十四万五千人の餓死者があったと記されています。