場所
大野城市錦町3丁目
分類No.
歴-0040し

江戸時代の運河跡地

江戸時代の運河の跡(瓦田石ヶ町から下筒井の錦町1丁目
信号の前まで、旧太宰府往還(おうかん)の西側に沿って1kmに及ぶ)は現在、新川緑地公園になっています。

寛文(かんぶん)4(1664)年黒田藩主光之公の時代、上座(じょうざ)、下座(げざ)2郡(現朝倉郡)の年貢米を船に積んで福岡城下に運ぶために、千歳川(今の筑後川)の水を引き、夜須、御笠を経て宰府川に合わせ、比恵川に通す計画でしたが、途中障がいも多く水路も長いため、工事が困難ということで中止になりました。しかし、この運河が利便が多いという理由から、寛延(かんえん)2(1749)年藩主継高公の時に至って、御笠郡二日市村(現筑紫野市)を起点として博多へいたる運河を開くこととして再度幕府の許可を得て、工事に着工し寛延3(1750)年に完成しました。
宝暦(ほうれき)4(1754)年頃運航を再開したと思われるが、実際に開始してみると、運河に入る水が少なく、そのため舟底がつかえるところが多く、結局舟行困難となり数年にして廃止となってしまいました。