菅公の枝(山田)
曽祖父(そうそふ)の時から代々学者の家柄に生まれた菅原道真(すがわらのみちざね)は、幼い時から勉学にはげみ、だんだん出世して従二位右大臣(じゅうにいうだいじん)近衛大将(このえたいしょう)という地位まであがられたため、左大臣藤原時平(さだいじんふじわらのときひら)や他の学者などからねたまれ、天皇につげ口されて、大宰権師(だざいごんのそつ)という位に落とされ、筑紫の国へ行くことを命ぜられました。
延喜元年(えんぎがんねん)(901)2月1日に京をたたれましたが、旅の支度もあわただしく、妻やすでに成人している子どもたちとも別れ、幼い子どもと門下生(もんかせい)味酒安行(みさけやすゆき)だけを連れ、送使(そうし)と衛士(えじ)に守られて、明石の浦から海路博多の津に上陸されました。
57歳の道真公にとっては大変つらい長い旅でした。その旅もいよいよ最後の日となり、今日中には大宰府に着くことができるのです。しかし、昨日にかわる今日の我が身のあわれさを思うと、心は暗く足取りは重くなるばかりです。隈麿(くままろ)と紅姫(べにひめ)の二人の手を引いて金隈(かねのくま)(福岡市博多区金隈)まで歩いてこられましたが、旅の疲れと寒さは京育ちの老いの身にはつらく、子どもたちの手をはなした道真公は、道端の竹林に入って手ごろな一本の竹を切り、この杖にすがりながらまた歩きはじめられました。
この杖を求められた所には、後に菅公の徳をしたう人たちによって祠が建てられ、杖切天神として祭られるようになりました。
気を取り直して歩き始められた道真公は、牛車はもちろん馬さえも与えられないで、囚人のような旅を続けて、すでに一ヶ月以上にもなります。もともと体は弱いほうでありましたので、二月の風は肌に冷たく、持病の脚気(かっけ)に苦しみながら、とぼとぼ歩く老学者と幼児(おさなご)の前方に、森がみえてきました。神功皇后(じんぐうこうごう)の笠がかかったという伝説のある山田村(大野城市)の御笠の森です。
森のかげに風をよけて杖を立てて、老樟(ろうしょう)の根方に腰を下ろして休まれた道真公の目には、一滴の涙が光っておりました。正月二十五日に突然大宰府へ行くことを命ぜざれ、親戚や友人に暇(いとま)をつげるひまもなく、二月1日の夜明けとともに、出発しなければならなかったのです。家族との悲しい別れも、夜明けをつげる一番鶏の声にせきたてられて、後髪を引かれるような思いで家を出たのが、昨日のことのおうに思い出されるのです。そしていつまた京都へ帰って、家族と面会することができるのか、これからの大宰府での生活は、どのようなものであろうかなどと考えると、不安はつのるばかりで、無情の風に追われるように立ち上がって、大宰府をさして再び歩きはじめられました。
後の世になり、村人達は道真公が杖を立てて休まれた御笠の森の傍らに祠を建て、杖立天神と名づけて祀りはじめましたが、昔から御笠川の堤防決壊による度々の水害に、悩まされつづけていた山田村の人たちは、延宝の頃(1670年代)全村あげて、御笠の森周辺古屋敷をすて、雑餉隈(大野城市)の東側の高地に移り住むことになりましたので、杖立天神も一緒に移転させて、現在の山田に再建しました。
この祠に隣接していた家では、道真公の徳をしたう心が特に厚く、家族との別れを断ち切った鶏の声をにくんで、代々鶏を飼うことを禁じられておりましたが、農家であるため雑穀の処理に困り、近年になって鶏を飼うようになったということです。