殿の倉の火事(やまだ)
享保(きょうほ)17年(1732年)という年は、2月頃から降りはじめた雨が5月初め頃まで続いて、大麦も小麦も立ち腐れてしまいました。それでも田植えは順調に行われ、稲はすくすくと育って、美しい緑の毛氈(もうせん)を敷きつめたような田んぼを眺めながら、農民たちは安心して喜びあっておりました。
ところが、6月中旬頃になると、ウンカやイナゴの大群が発生してようやく実りかけた稲は食い荒らされてしまい、野菜はもちろん雑穀(ざっこく)もすべて食いつぶされ、人間が食べるものは無くなってしまいました。日頃貯えることも出来ない一般階級の人々は、わらび・山芋・木の根などを求めて続々と山に入ったり、または30人50人と徒党(ととう:ひとつの目的のために集まった仲間)を組んで、裕福な町家や役人の家に押し入って、食べられるものは手当たり次第にかすめ取っていくようになり、寒い冬が近づく頃には、町にも村にも門の前・橋の上・道端などいたるところに、餓死(がし)した人が放置されたまま、転がされているのを見るようになりました。
翌18年になると、人々の体はいよいよ衰弱してしまい、働く気力もなくなり、そのうえやむを得ない不摂生(ふせっせい)と栄養不足 (えいようぶそく)から、伝染病(でんせんびょう)まで発生しました。食べ物を求めてさまよう人々は、あるいはふくれ、あるいは骨と皮ばかりの幽鬼(ゆうき)のような姿となって、さながら地獄(じごく)の餓鬼道(がきどう)を現実にしたような、いたましい光景が国中に見られ、村々には続々と死人が増えていきました。
山田村の庄屋(しょうや)清兵衛さんは、このままでは村中の者はみんな死んでしまうだろう、何とかしなければならない、と毎日村中の家々を見回りながら考え込んでおりましたが、どうしようもありません。国中みんなが飢餓(きが)と伝染病に苦しんでいるので、助けを求めるところはないのです。腕組みをしてうつむきながら歩いていた庄屋さんは、いつの間にか村の中央にある殿の倉の前に来ていました。
殿の倉とは百姓が納めた年貢米を集めて、お城に持っていくまで保管しておく倉のことですが、ふとこの倉を見た庄屋さんは、年貢米の一部がまだ倉の中に残っていることを思い出しました。そうだ、この米を村の者に分けてやればみんなが助かる。しかし殿様の米を断りもしないで分けてしまえば、きっと重い罪になるだろう。でも庄屋として村民のために今できることはこれしかないのだ。と何回も何回も心の中でつぶやいていましたが、ついに自分一人が罪をうければいいのだと決心しました。
すぐに村中の者は殿の倉の前に呼び集められました。そして倉の鍵をはずし扉をあけて、中の米を全部村人に分けてやり、空になった倉には火をつけて焼いてしまいました。
涙を流して喜んでいる村人達を眺めて、もう思い残すことはないと、一人で殿様のお城に出かけて行きました。殿様の前に出た庄屋さんは、失火(しっか)のために殿の倉を焼いてしまい、お預かりしていた中の米まで全部灰にしてしまいましたが、去年から今年にかけての飢饉で代わりに納める米もありません。どうか責任者である私一人を罰してくださいとお願いしました。
庄屋清兵衛さんの義侠心(ぎきょうしん)に気づかれた殿様は、失火の罪として流刑(るけい)を申し渡されましたが、御笠川を越えて中村(なかむら)に移り住むだけの軽い罰でお許(ゆる)しになりました。この庄屋清兵衛さんの子孫が、現在中村に住む樋口(ひぐち)氏であるといわれています。
また、当時のきまりとしては、山田村に住んでいる庄屋さんの親類縁者は、同じ罰をうけることになっておりましたが、名前をかえれば前の人間は死んでしまい、新しく生まれ変わったことになるという殿様の厚い情により、改名してそのまま山田に住んでいました。