日田街道とは、江戸時代に博多・久留米・中津・熊本・別府の各地から日田に通じる街道の総称ですが、筑前を通る街道の中で日田街道は、長崎街道や薩摩街道と共に九州では目立って往来が多い街道でした。
江戸幕府は、天領(幕府直接の支配地)であった日田を支配するために西国郡代を配置していま
した。当時は郡代をはじめ、長崎奉行など地方に派遣されていた幕府の役人は一年で交替することになっていました。また、各地の領主である大名は、 1年おきに在府・在国する三勤交替の制度が設けられ、それに相まって全国の街道や宿場が整備されてきました。 筑前の日田街道は、博多から宰府・二日市・甘木などの宿を経て日田へ至る街道で、別名代官道とも称されていました。現在の大野城市内の経由地は、山田・雑飼隈・筒井・瓦田・白木原・東大 あい 利で、中でも雑飼隈は間の宿(中間の宿)としてにぎあっていたようです。この通りを、古い記録には宰府往還ともしるされ、天満宮参詣客や物流関係者などの往き交いも多かったそうです。歴史ある日田街道も、昭和7年の国道開通によってその役割りに終止符が打たれました。 (歴史資料展示室解説シートより)