大野城の宝ものさがし♪水城跡や大野城跡をめぐるまち歩きレポート

こんにちは!大野城市にぎわいづくり協議会です。
水城跡や大野城跡など町歩きの視察に参加してまいりました。
大野城の宝ものさがしのレポートをさせていただきます♪

見どころがたくさんで前半と後半に分けておこないました。
前半は、小水城跡のある(ゆめあかり広場)を出発して、推定望楼跡・思水園跡~西門跡~父子島~ふるさと水城跡公園・土塁断面ひろば~木樋跡~土塁欠堤部~水城館(太宰府市)を歩きました。歴史に詳しい大野城市文化財課の方のガイドを聞きながら約3時間の小旅行です。
後半は大野城跡を散策しに四王子山へ。ワンヘルスの森ミュージアム~百閒石垣~タケルの岩~焼米ヶ原の尾花地区礎石群~太宰府口城門~約2時間ゆっくり散策しました。

小水城跡(ゆめあかり広場)

小水城跡(ゆめあかり広場)

土を高く積み上げた「土塁(どるい)」と濠から成る、7世紀に作られた水城。本体の水城に対して小水城は小さな土塁。北から敵が来た時に土塁でふさぐ目的で谷あいの低い位置に点在しています。

水城とは?

水城とは?

7世紀朝鮮半島での戦争に敗退した日本では国際的な危機感がつのり、国土防衛のために「水城」と「大野城」を建設します。
『筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』(大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた)と日本書紀に記載があります。日本書紀は国史なので、公的な歴史の記録に残されるほど当時から注目されていたようですね!
10mもの高さがある土塁を挟んで外濠・内濠があります。外濠は深さ4mもあり北から来た敵を足止めに設置されており、内濠がある味方の方(太宰府側)は人がたくさん待機できるようひらけていました。土塁の中には水を通す管があり水城の外に排水していました。太宰府側の方が日当たりもよく、現在は桜の名所になっていたりします。

推定望楼跡・思水園(しすいえん)跡

推定望楼跡・思水園(しすいえん)跡

昭和初期の観光施設。鯉釣りの池や料亭や美しい庭園があり、たくさんの人でにぎわったそう。今では瓦や建物の残骸を見ることができます。

あたり一帯は太平洋戦争の拠点として使用されていて、作戦本部が置かれ戦車などが設置されたので平らになっています。
終戦後はアメリカ基地のダンスホールがあったとされる場所も近くにありました。

父子島(ててこじま)の民話

父子島(ててこじま)の民話

土塁建設のなか何度も何度も汗水たらして土を運んでいた父と子が、水城の完成の知らせを聞いて大歓喜。「もう土を運ばなくていいんだ!」とその場に土を放り投げてこんもりとなったところが父子島と呼ばれる丘になったそう。水城の建設がどれほど大変な労働だったかを物語る伝説です。

実は父子島だけが丘のようになっていたのでなく、そのあたり一面が高さのある土地になっていたと調査で分かったとか。
同じような伝説が太宰府(ひともっこ山跡)にもあります。

ふるさと水城跡公園・土塁断面ひろば

ふるさと水城跡公園・土塁断面ひろば

JR水城駅東側にある土塁断面ひろばには水城の土塁の仕組みや建築方法の分かりやすい説明が♪

水城跡中央には御笠川が流れておりそのあたりは湿地…。土塁の建設をするには地盤が不安定でした。そこで土の重みで土塁が崩れてしまわないよう、木の枝葉を何層も敷き詰めて土を積む「敷粗朶(しきそだ)」という土木技術が採用されていました。
建設から1300年もたつのに、出土した当時の枝葉の層はきれいな緑色をしていたそうですよ!

木樋(もくひ)跡

木樋(もくひ)跡

ラッキーなことに発掘調査が行われている貴重な現場を見学しました!
土塁の中には木樋(もくひ)と呼ばれる水道管が通っています。木樋の大部分は土塁の中に埋まっていて、入口(取水口)と出口(吐水口)だけが外に出ており、内濠と外濠がつながっていたことが分かっています。
調査では木樋はすでに抜かれているため、その破片を探しているとのことです(2023年2月現在)

土塁欠堤(けってい)部

土塁欠堤(けってい)部

水城跡の中央少し東側、御笠川により土塁が途切れる地点があります。通称「欠堤部」。
土塁はあえて破ったのかもしれないという説もあります。川の水をせき止めて敵が来た時に水攻めをして押し戻したとか。水城ができたのは7世紀、中国は3世紀頃からそういった戦法をおこなっていたので(三国志でおなじみ!)十分考えられるそうです。
現在は開発によってなにもない平野ではありますが、解説を聞くとロマンがあって急に愛着がわいてきます!(笑)

真ごころある開発

真ごころある開発

ご存じでしたか?水城が高架道路で隠れてしまわないよう道路の高さなどしっかり計算されてあります。
下大利団地(5階建て)も土塁の景観を損ねないよう建ててあるそうです。

水城館

水城館

年間1万人が訪れる人気の水城館。5分くらいのムービーが流れており、水城や当時の歴史をサクっと解説してあってとても分かりやすいです。

東門木樋(もくひ)跡

東門木樋(もくひ)跡

水城館と道路を挟んで向かいの東門木樋跡。土塁のなかを木樋が通っていたレプリカがありとても分かりやすいです。ちなみにこの道路(県道112号線)は昔国が作った古代官道で博多と太宰府の16kmをほぼ直線で結んでいました。
大宰府政庁があった頃、県道112号線と水城跡が交差するあたりには東門があり、古来から太宰府への玄関口を担っていました。東門礎石を見ることができます。

大野城跡

大野城跡

665年(水城の建設の翌年)に建てられた大野城は宇美町・大野城市・太宰府市にまたがる四王寺山にある古代山城。山城とは戦うためのお城です!山に城門や土塁・石垣を築き、内側に武器庫や食糧庫、井戸を完備していました。大野城跡にはそういった建物の名残を見ることができます。
やがて四王子山は戦う山城から祈りの山へと変わっていきました。774年、眺望の良い清らかな地を選んで四王院が建てられたことがきっかけだったようです。仏像や仏具が四王子山でたくさん見つかっています。

百間石垣 一番大きな石垣!

百間石垣 一番大きな石垣!

大野ジョーくんの頭のモチーフになった!大野城最大の石垣。
大野城の城壁は土塁で囲まれていますが、起伏の激しい地形のため、谷のところは石垣でつくられています。百間石垣は180mほどの長さがあり、平均4mほどの高さがあます。外壁面の角度は75度くらいの急斜面になっています。急こう配の階段をヒイヒイ上って石垣を見ましたが、一般的なお城の石垣と違ってかなり直角に近い構造になっていました。こんな高いところにどうやって並べたんだろうと不思議です。

大野城跡の高~い土塁

大野城跡の高~い土塁

大野城は全長8kmくらいの土塁で囲まれています。土塁の上に立ってあたりを見下ろすと、すごく急な斜面になっていることがわかります。これでは敵が攻めてきたときに近づくことも難しそうです!最高所は7メートルあるといわれています。大自然を切り開いてこれだけの建設をおこなったなんてすごいですよね!
夜は夜景の名所としても人気のスポットです♪

1300年前のお米!焼米ヶ原の尾花地区礎石群

1300年前のお米!焼米ヶ原の尾花地区礎石群

高床式倉庫があった場所で柱を立てる礎石の跡が残っています。食料の倉庫だったようで炭になったつぶを拾うことができます。少し前までもっとざくざくと米粒を拾うことができたそうです。1300年前の食べ物がいまだに確認できるなんて貴重ですよね!

同じような建物の柱の跡が城内に多数残っています。一棟が学校の教室くらいの大きさがあったようです。

太宰府口城門

太宰府口城門

大野城の城門は9か所あり、北に守り南に開けています。
山城の入口で最も大規模なものが太宰府口城門跡。門に使われたとされるたくさんの瓦や鬼瓦も発掘されています。

外側には石垣が見えています。相当大きな入口だったことが伺えます。

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