当時のハイテク技術の集大成 筑紫の防衛拠点「水城跡」
天智3(西暦664)年に、福岡平野から筑紫平野へ通じる最も狭まったところに造られている長大な土塁。復興を目指す国「倭」(わ)が九州支配の拠点である「那津宮家(なのつのみやけ)」を現在の太宰府政庁跡の場所へ移し、この防衛の為に水城を築造したといわれています。
「筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯(たくわ)へしむ。名(なづ)けて水城(みずき)と日(い)ふ。」これは日本書紀の天智3年の条に記述されています。分かりやすく言い換えると「筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。」これが『水城』の名の由来です。濠(ほり)の全長は80mで土塁前面の博多湾側に幅60m、深さ4m前後、この濠に通水する木樋(もくひ)は幅1.5m、深さ0.7mであり版築工法(はんちくこうほう)で築かれた土塁の下に設置されていました。県道112号線の水城3丁目交差点(東門)、大野城市下大利4丁目(西門)で2つの門を見る事ができます。東門では門の礎石や木樋が見つかっています。
水城と同じ構造で作られている規模の小さい小水城は、大野城市の上大利(現在の旭ヶ丘)などでも見ることができます。千年以上も前のハイテク技術を駆使して築造された長大な土塁は、国指定特別史跡にも指定されています。